加納城の始まりは、文安2年(1445年)に美濃の守護代・斎藤利永が築いたと伝わる
沓井城(くついじょう)にさかのぼります。近くの川手城を支える出城でしたが、
天文年間(1530年代後半)には廃されたと言われています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののち、西軍についた織田秀信の岐阜城は
破却されました。徳川家康は岐阜城に代わる西国への備えを求め、慶長7年(1602年)、
諸大名を動員する天下普請で加納城の築城を始めます。
縄張は家康自らが指図し、普請奉行は本多忠勝が務めたと伝えられています。
同じ年、家康の娘婿にあたる奥平信昌が10万石で入り、初代の加納藩主となりました。
信昌の正室は家康の長女・亀姫で、長篠の戦いで長篠城を守り抜いた武功は
よく知られています。その後、城主は大久保氏・戸田氏・安藤氏・永井氏と替わり、
永井氏の代で明治維新を迎えました。
天守は最後まで築かれず、二の丸の北東隅に建てられた
御三階櫓が天守の代わりを務めました。この櫓は岐阜城山頂の天守を移したものと
伝えられていますが、享保13年(1728年)の落雷による火災で焼失しています。
明治4年(1871年)の廃藩置県で加納城は役目を終え、翌年には建物も取り壊されました。
お城の豆知識
- 天守は一度も築かれず、二の丸北東隅の御三階櫓(独立式層塔型3重4階)が天守の代わりだった
- その御三階櫓は、廃城となった岐阜城の天守を移築したものと伝えられている
- 本丸の正門に出枡形を備える独特の構造は「加納城型」と呼ばれ、初期の徳川系城郭の特徴とされる
- 城域は南北約550メートル、東西約400メートルにおよび、二重の堀に囲まれていた
- 本丸を囲む石垣は高さ4〜5メートルほどで、ほぼ全周にわたって良好に残っている
- 発掘調査では、江戸時代の城の下から戦国時代の土塁が見つかり、沓井城の言い伝えが裏づけられた
- 平成16・17年度の調査では、大手口北の堀から堀障子(堀底の仕切り)が見つかっている
- 廃城後は師範学校・小学校・陸軍の航空師団司令部・自衛隊駐屯地と姿を変え、昭和58年(1983年)に国の史跡となった
城データ
| 名称 | 加納城(かのうじょう) Kano-Castle |
|---|---|
| 別名/愛称 | 沓井城(前身となった城の名) |
| 所在地 | 〒500-8485 岐阜県岐阜市加納丸之内 |
| 築城年 | 慶長7年(1602年) ※前身の沓井城は文安2年(1445年) |
| 廃城年 | 明治4年(1871年) |
| 築城者 | 奥平信昌 ※徳川家康の命による天下普請 |
| 主な城主 | 奥平氏、大久保忠職、戸田氏、安藤氏、永井氏 |
| 城の形式 | 平城 |
| 指定文化財 | 国の史跡(昭和58年〈1983年〉10月28日指定) |
| 天守の現状 | 城跡(遺構のみ) ※天守は築かれず、御三階櫓も焼失 |
マップ
観光情報
加納城跡はJR岐阜駅から徒歩約10分、名鉄岐阜駅から徒歩約13分と、
駅からとても近い場所にあります。
本丸跡は加納公園として整備され、野面積みの石垣や土塁、堀跡をぐるりと歩いて見学できます。
公園の南側には無料の駐車場があり、本丸跡からは金華山と岐阜城を望むことができます。
| 開館時間 | いつでも(本丸跡は加納公園として開放) ※駐車場は5〜9月 7:30〜19:00/10〜4月 8:30〜17:00 |
|---|---|
| 入場料 | なし |
| 休館日 | なし |
| その他 | 最新情報は岐阜県公式ページをご覧ください。 加納城跡(岐阜県公式ホームページ) |
情報更新日:2026年9月10日
近隣の観光スポット
- 加納天満宮(岐阜市)- 沓井城の守護神として勧請され、家康が加納城の鎮護として遷したと伝わる古社
- 中山道加納宿まちづくり交流センター(岐阜市)- 加納宿と加納城の資料を展示する、街道歩きの休憩所
- 岐阜城(岐阜市)- 金華山頂に建つ、斎藤道三・織田信長ゆかりの日本100名城
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- 岐阜市歴史博物館(岐阜市)- 岐阜公園内にあり、信長の楽市楽座を体感できる展示が並ぶ
- 岐阜大仏(正法寺)(岐阜市)- 高さ13.7メートル、乾漆仏としては日本一の大きさを誇る大仏
- 伊奈波神社(岐阜市)- 岐阜の総鎮守として、信長も篤く崇敬したと伝わる古社
- 崇福寺(岐阜市)- 織田信長・信忠父子の菩提寺として知られる古刹
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